大西 康之 著 | 新潮社 | 254p | 1,500円(税別

プロローグ 孫正義の「大恩人」、スティーブ・ジョブズの「師」
1.台湾というコスモポリス
2.「殺人電波」を開発せよ
3.アメリカで学んだ「共創」
4.早川電機への転身
5.「ロケット・ササキ」の誕生
6.電卓戦争と電子立国への道
7.未来を創った男
エピローグ 独占に一利なし

 日本の電子産業は、半導体やLSI、それを搭載した電卓、液晶技術などでかつて世界を席巻した。終戦後からPC・スマホ全盛の現代まで、これらの技術をリードし、影響を与え続けた伝説の人物が、佐々木正氏だ。台湾で育ち、戦中は軍需産業に手を染める。戦後、神戸工業を経て早川電機(後のシャープ)に入社し、同社を日本を代表する電機メーカーの一つに育て上げた佐々木氏は、スピーディな行動力と世界に張り巡らされた豊かな人脈、そして「共創」の精神によるイノベーションで電子立国日本を牽引。さらにソフトバンク創業前の孫正義氏を見出し、創業のための資金調達を手引きした孫氏の「大恩人」としても知られる。本書はそんな佐々木氏の波乱万丈の足跡を辿った評伝である。著者は元日経記者のジャーナリスト。著書に『稲盛和夫 最後の闘い』『会社が消えた日』などがある。


高校時代の「リンゴマンゴー」の研究が「共創」の信念につながる

高校3年の夏、佐々木正は台北帝国大学で植物の研究をしている教授のところへ実習に行き、ある研究テーマを与えられた。「接ぎ木」だった。「熱帯の木と北方の木を接ぐ方法を考えてみろ」と教授は正に課題を出した。正は早速、日本からリンゴの苗を1,000本ほど取り寄せ、台湾南部で調達したマンゴーの苗に接ぎ木してみた。

 リンゴに接ぎ木したマンゴーはすぐに枯れてしまう。原因を調べると、樹液が流れる管の太さがまるで違うことがわかった。正は管の細いリンゴの枝を斜めに切って表面積を増やした。すると熱帯のマンゴーと北方のリンゴが見事に繋がり、リンゴのような形のマンゴー「リンゴマンゴー」の実を結んだ。「そうか、異質なものでも工夫をすれば接ぐことができる。違うものを接げば、そこから新たな価値が生まれるのか」

課題を相談するとその場で電話をするなどして解決策を出す

 1964年4月、佐々木は早川電機(※後のシャープ)に入社した。ポジションは新設された産業機器事業部の部長である。
 新設の事業部は丸腰に近かったが、その中で唯一、商売の匂いがする商品があった。「電卓」である。血のにじむ思いで発売にこぎつけた商品だったが、値段が高すぎてほとんど売れていなかった。

 1964年に発売された電卓「CS-10A」を開発したのは入社9年目の技術者、浅田篤を中心とした若手のチームだった。電卓研究の資料を一通り読んだ佐々木は、開口一番、こう言った。「浅田君、これ面白いね。この回路はいつかチップになって人間の脳に埋め込まれるかもしれないよ」。(この人は、本当に大丈夫か)。地黒な浅田の顔が少し青ざめた。(俺たちが死ぬ思いで小型化しても、まだ卓上を占拠している計算機が、たった一つのチップになる?)。突拍子もなさすぎて話にならない。

 だが浅田が佐々木の部屋に入り浸るようになるのに、たいした時間はかからなかった。「ああそれなら、三菱電機に頼みなさい。僕から電話をしておいてあげよう」「それは(当時、世界最大の電機メーカーだった)RCAに聞くのが早い。向こうが朝になったら電話しよう」。部屋に入って、課題を相談すると、その場で解決策が飛び出してくる。

 浅田たちが「今まで狭い研究室でひざを突き合わせて悩んできた俺たちは何だったのか」と嫌になるほど、佐々木の見識と人脈は広かった。「いいかい、君たち。わからなければ聞けばいい。持っていないなら借りればいい。逆に聞かれたら教えるべきだし、持っているものは与えるべきだ。技術の世界はみんなで共に創る『共創』が肝心だ」

「戦闘機のスピードではついていけない」と言われた着想力

「うーん」。佐々木は一人で考え込んでいた。国産初のIC電卓は爆発的に売れた。だが目の前にあるCS-31Aは脳どころか、ポケットにも入らない。今の技術ではこれが限界だった。

 佐々木が唸っていると、ドアを開けて総務の担当者が入ってきた。「今度建てる家族寮の図面と見積もりが上がってきました」。佐々木は顔をしかめた。「高いなあ」「はあ、しかし家族寮となると、プライバシーもありますので、独身寮のような安普請というわけにもいきません」。なるほど部屋を仕切る壁が独身寮の倍の厚さになっている。間取りが複雑だ。

 佐々木は図面をじっと見つめた。(これはICの回路じゃないか!)。佐々木は机の引き出しを開け、独身寮の図面を出した。家族寮と独身寮。二つの図面を交互に見ながら、ひとりごちた。「そうか。MOSか」

 MOS。数年前にアメリカで発明された新しいタイプの半導体だった。それまでのトランジスタは、二つのキャリア(電荷)を持つ「バイポーラ」というタイプだったが、シリコンの上に薄い金属膜を塗って作るMOSは、一つのキャリアを電界効果で移動させる。バイポーラの回路が家族寮なら、MOSは独身寮だった。部屋の構造はシンプルで壁は薄い。集積度を上げるにはもってこいの技術である。

 佐々木がMOSを作ってくれる半導体メーカーを探してアメリカを奔走している頃、早川電機本社では、入社2年目の新米技術者が電子回路と格闘していた。吉田幸弘だ。
 佐々木がアナハイムでオートネティクス(※精密機械メーカー、ロックウェルの子会社)社長を口説き落とした数ヶ月後、吉田は浅田に呼ばれた。「吉田くん。君、しばらくアメリカに行ってくれ」

 吉田の仕事は、電卓用のMOSを開発することだ。佐々木も頻繁に顔を出し、開発の議論に加わってあれこれアイデアを出した。ロックウェルの技術者たちは、議論の最中に発想があっちこっちへ飛び、突然、とんでもないことを言い出す佐々木に手を焼いたが、その発想の豊かさには舌を巻いた。「戦闘機のスピードではササキには追いつけない。ロケット・ササキだ」

スティーブ・ジョブズに画期的な「共創」を助言

 1985年の秋、東京支社長になった佐々木が市ヶ谷のオフィスにいると、受付から電話がかかってきた。「薄汚い格好をした外国人が、入り口で『ササキに会わせろ』と暴れています」。「名前を聞いてくれないか」佐々木がそう言って電話を切ると、すぐに折り返しがあった。「名前はジョブズというそうです」「ああ、スティーブか」
 ジョブズは(アップルに)辞表を叩きつけた直後だった。

 「久しぶりじゃないか」。ジョブズは、黙って下を見つめている。しばらく沈黙が続いた後、ジョブズが言った。「あんたは電卓を作った。俺はパソコンを作った。次は何だと思う?」。それは70年代後半に電卓戦争が終息した後、佐々木がずっと考えてきたことだった。

 シャープは電卓のために開発した液晶が生産過剰になると、ビデオカメラのディスプレーに転用することを思いついた。ファインダーをのぞき込まなくてもビデオが撮れる「液晶ビューカム」は大ヒットした。やがて液晶はパソコンのディスプレーにも使われるようになり、シャープの液晶事業は順調に拡大していた。液晶という一つのデバイスを様々な分野に応用して、新市場を開拓していく。このやり方を社内では「スパイラル戦略」と呼んだ。一つのヒット商品に安住しないシャープのDNAである。

 「パソコンの次は音楽だと思う」。ジョブズが言った。「コンピューターで音楽を聴くのか」「そうだ。あんたが作った電卓みたいにポケットに入るやつだ」「音楽のことなら、私より大賀さんの方が詳しい。電話をしておいてあげるから、話を聞いたらいい」「ソニーのノリオ・オオガか」「そうだ」

 会話に満足したジョブズが立ち上がろうとするところを、佐々木は押しとどめた。「君はリンゴマンゴーを知っているか。今の君は寒い国のマンゴーだよ。だから会社を追い出されたんだ」「では、どうすれば俺は生きられる」「だからリンゴマンゴーだよ。君は独創的な人間だが、一人では世の中を変えられない。他人と手を組むんだ」「誰と組めというんだ」「ゲイツだよ」「ゲイツ? ビルのことか。あいつはダメだ。だいたいあいつはセンスがなさすぎる。ウインドウズだって俺のGUIを盗んだだけだ」

 1997年、アップル復帰と同時に、ジョブズは大きな決断をする。毛嫌いしていたゲイツのマイクロソフトから1億5000万ドルの資金提供を受けることにしたのだ。この提携で、マイクロソフトは看板商品「オフィス」と「インターネット・エクスプローラ」のアップル版を作ることになった。パソコンを二つに分けていた壁が取り払われ、世界中のパソコン利用者が自由になった。それはまさに、リンゴとマンゴーによる「共創」だった。

コメント

佐々木氏がシャープの経営から降りた後、同社は液晶関連事業に集中し一時は成功を収めるものの、ライバルとの競争に敗れ、周知の通り衰退の一途をたどることになる。本文にあるように佐々木氏のモットーは「共創」であり、同氏在籍時のシャープは「スパイラル戦略」を特長としていた。ところが“佐々木後”の同社はその正反対の「「ブラックボックス戦略」「オンリー・ワン」を標榜した。私たちは、佐々木氏が生涯をかけて追求した「共創」の意味と意義について深く考えてみる必要があるのかもしれない。

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