クリスチャン・マスビアウ 著 | 斎藤 栄一郎 訳 | プレジデント社 | 368p | 1,800円(税別)

はしがき 思考の終焉
序.ヒューマン・ファクター
1.世界を理解する
2.シリコンバレーという心理状態
3.「個人」ではなく「文化」を
4.単なる「薄いデータ」ではなく「厚いデータ」を
5.「動物園」ではなく「サバンナ」を
6.「生産」ではなく「創造性」を
7.「GPS」ではなく「北極星」を
8.人は何のために存在するのか

ビッグデータやAI、IoTといったテクノロジーがもてはやされる一方で、文学や哲学といった人文科学系の知識は、ビジネスでは軽視されがちだ。しかし、複雑な世界の中で物事の意味や本質を見抜き、洞察を得たり、的確な意思決定をするには、数字では測れない人文科学の「知」や思考も必要だろう。本書では、文化や歴史、人々の行動や感情、経験などの文脈で物事を捉え、意思決定や洞察に結びつける実践的な知の技法を「センスメイキング」と名づけ解説。そのポイントの一つは、定量分析や数理モデルのみの「薄いデータ」ではなく、定性的な、事実のさまざまな文脈を含む「厚いデータ」をもとに思考することである。著者はReDアソシエーツ創業者、同社ニューヨーク支社ディレクター。同社は人間科学を基盤とした戦略コンサルティング会社として、文化人類学、社会学、歴史学、哲学の専門家を揃えている。


現実の世界は数字やモデルだけで捉えることはできない

 今や人々は、STEM(科学・技術・工学・数学)や「ビッグデータ」からの抽象化など理系の知識一辺倒になっているため、現実を説明するほかの枠組みが絶滅寸前といってもおかしくない状況にある。

 人間のあらゆる行動には、先の読めない変化が付き物なのだが、理系に固執していると、こうした変化に対して鈍感になり、定性的な情報から意味を汲み取る生来の能力を衰えさせることになる。世の中を数字やモデルだけで捉えるのをやめて、真実の姿として捉えるべきだ。

 最近は、アマゾンやグーグルをはじめ、数え切れないほどのアプリやベンチャー企業がビッグデータを活用している話題で持ち切りだ。我々は、データが多ければ気づきやひらめきも多くなると信じ切っている。フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグが、人々のビッグデータ中毒を見逃すはずもなく、先ごろ投資家向けに、「世界のありとあらゆる事象を網羅する決定的なモデル」を構築すると語っている。

 こうした風潮の中で、筆者はどうしても届けたいメッセージがある。それは、文化的知識(人文科学的な思考で育まれた知)の価値は間違いなくあるということだ。

 筆者の言うセンスメイキングは、人文科学に根ざした実践的な知の技法である。アルゴリズム思考(※数理的・分析的に手順を踏んで考えること)の正反対の概念と捉えてもいいだろう。アルゴリズム思考は、固有性を削ぎ落とされた情報が集まった無機質な空間に存在する。

 例えばセンスメイキングの立場で部屋を見るとは、どういうことか。個々の物が詰まった空間と捉えるのではなく、文化的現実を構成する構造体と捉えることが大切だ。アルゴリズム思考では、香水の瓶には何ミリグラムの液体が入っているとか、ペンはプラスチックに金属を組み合わせてつくられているといった視点で定義付けをする。

 一方、センスメイキングでは、あらゆるものを相対的な関係性で捉える。だから香水は、口紅やハイヒール、テキストメッセージと同じく、デートという世界に属する用品になる。ペンは、ワープロや紙や本とともに、書き物の世界に属することになる。ペンも香水もハンマーもワープロも、生活に関わるあらゆるものは、相互に関係がある。

 筆者は、センスメイキングのデータを「厚いデータ」と呼ぶようにしている。厚いデータは、単なる事実の羅列ではなく、事実の「文脈(前後関係・状況)」を捉えている。例えば「40グラムのリンゴと1グラムの蜂蜜」というのは薄いデータだ。だが、「ユダヤ教の新年祭にリンゴを蜂蜜につけて食する習慣がある」となったとたん、これは厚いデータに変わる。

 我々がめざしているのは、物事の意味を見出すことだ。複雑な世界の中で、センスメイキングは本当に重要なものを見極める力を与えてくれるのである。

「厚いデータ」で成功した投資家ジョージ・ソロス

 1992年9月初旬のある日、ニューヨークシティ7番街の雑居ビルにあるヘッジファンドのオフィスに3人の為替トレーダーがいた。

 3人の男は、さまざまなデータ分析に目を通しながら議論の真っ最中だった。だが、この貴重そうなデータには、スプレッドシートもベンチマーク分析も数理モデルも含まれていなかった。実は3人は、傷ついたプライドとはどういうものか、自治国家としての野心とはどういうものか、その両方について共感を持って理解するのに欠かせない厚いデータを解明していたのだ。具体的には、ドイツ連銀総裁ヘルムート・シュレジンガーと英国財務大臣ノーマン・ラモントのつばぜり合いの真意を推し量ろうと躍起になっていたのである。

 3人は次のように考えた。ドイツは、第一次世界大戦後の超インフレで貨幣価値がゼロになったこともあり、歴史的にインフレにいつまでも耐えるとは思えない。英国経済は短期モーゲージ市場の問題を抱えていて、デフレを受けいれられそうにない。となれば、結論は明らかだ。為替相場で調整せざるをえない。3人揃って納得の筋書きだった。投資の可能性としては、ポンド空売りが一番儲かることになる。

 1992年9月16日、いわゆる「ブラック・ウエンズデー」(※英国の欧州為替相場メカニズム離脱を招いたポンドの為替レート急落の日)の翌日、おびただしい数の投資家が一儲けしたが、ダントツだったのは、この3人組だ。その名は、稀代の投資家ジョージ・ソロス、その後継者のスタンリー・ドラッケンミラー、当時のチーフ・ストラテジスト、ロバート・ジョンソンである。

 あのニューヨーク7番街の一室で、いったい何が起こったというのか。3人は、どのようにしてこれが大勝負のタイミングだと知ることができたのか。

 3人ともデータに潜む文化的な文脈を掘り出そうとしたのだ。ロバート・ジョンソンに尋ねると、次のように説明してくれた。「あのときのデータは大部分が数字ではなかったのです。経験だったり、新聞記事だったり、人々の反応に関するストーリーだったり、会話だったり。いわば物語的なデータでした」。これこそ、筆者の言う「厚いデータ」である。

「共有知識」を含む4種類の知識を融合させて考える

 なぜ「厚み」が生まれるのか。なぜ厚いデータが重要なのか。この疑問を解明するために、4種類の知識に光を当てたい。

1.客観的知識:客観的知識は、自然科学の基盤である。「2+2が4であることを知っている」「このレンガの重さが3ポンドであることを知っている」。この手の知識には、本当の意味での視点や物の見方はない。

2.主観的知識:主観的知識は個人的な見解や感覚の世界といえる。認知心理学の研究対象となる知識本体、すなわち内面生活の表れである。自分自身に関することは、誰もが知識として尊重している。

3.共有知識:三つめの知識は、公共の文化的な知識である。言い換えれば、共有された人間の経験の領域である。例えば、ユダヤ人の経験とは何か、米国で働く女性であることはどのような意味を持つのか、急激に都市化が進む中国の都市部に移住する気持ちはどのようなものか、といった経験である。

 ソロスらにとって、この第3の知識はあの大勝負をかける際の要になっていた。ドイツにおけるインフレの経験はもちろんのこと、戦後の通貨政策にその経験がいかにはっきり表れていたかも含め、しっかりとした「知識」が3人にはあったのだ。ロンドンの街並みの雰囲気だとか、利上げで英国が困窮している様子も、3人は「知識」として持っていた。

4.五感で得られる知識:さらに、ソロス率いる投資グループは、身体から得られる第四の知識にもアンテナを張っていた。ソロスは市場データを一種の意識の流れとして体感していて、市場データが自身の知覚に複雑に絡みついているのだ。実は、ソロスが大きな投資をするときは、背中の痛みか寝つきの悪さで決断するという。

 ソロス率いるチームが絶妙な判断を下すことができたのは、上記の4タイプの知識すべてを見事に融合させたからなのだ。センスメイキングでは特に大切なことだが、彼らは四つの知識をどれも重視したのである。

 与えられた文脈からなるべく多くの知識を抽出し、ベンチマークやモデル化はあくまでも道しるべ程度に利用したからこそ、1992年にソロスのチームは極めて多くの情報を手にすることができた。

 これがゴールドマン・サックスとかモルガン・スタンレーといった銀行のスタッフだったら、頭脳明晰で、非の打ちどころもないほど立派な学歴の数学者や物理学者が考案した数学モデルで分析していたに違いない。こういうモデルは、英財務大臣ノーマン・ラモント(1992年当時)の腹のうちなど数値化できないデータには、まったく歯が立たない。

コメント

著者の言う「4種類の知識」のうち、「客観的知識」以外の三つはいずれも「個」に依存するものだ。「共有知識」にしても、世の中の膨大な文化的な情報からどれをチョイスするかは、個人間で異なる。それはつまり、「客観的知識」が主役のアルゴリズム思考よりも、4種類の知識が融合した「センスメイキング」の方が、はるかに商品の差別化やイノベーション、影響力のあるリーダーシップに有効なことを意味する。注意すべきは、著者は客観的知識やアルゴリズムを軽視したり、まったく無視したりせよとは言っていないことだ。客観的知識以外の三つだけでは独りよがりになりがち。うまくバランスをとることも大事で、その際に四つをどう配分するかにも、個性が出てくるのだろう。


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