『ピープルズ・バンクの理想を求めて A・P・ジャンニーニ伝』
A.P. Giannini: The People's Banker
Francesca Valente 著 | Barbera Foundation | 220p


1.苦しい子ども時代
2.ロレンツォ・スカテナ
3.バンク・オブ・イタリアの設立
4.震災:災害と機会
5.ブランチバンキングの幕開け
6.ロサンゼルス 見逃せないチャンス
7.シカゴ以西で最大の銀行を目指して
8.20年間の着実な成長を記念して
9.夢を実現するために
10.全国的な銀行へ
11.内なる裏切り
12.戦場への帰還
13.良き時代への回帰
14.再び包囲される
15.バンク・オブ・アメリカの新しい心臓部
16.ジャンニーニの遺産


世界有数の商業銀行「バンク・オブ・アメリカ」。そのルーツに、サンフランシスコのイタリア系移民コミュニティに向けた小銀行「バンク・オブ・イタリア」があることは、あまり知られていないのではないか。
創業者A・P・ジャンニーニは「ピープルズ・バンク(民衆のための銀行)」として同行を立ち上げた。

未邦訳の米国書籍である本書は、バンク・オブ・アメリカの前身、バンク・オブ・イタリアを創業し、その後の未曾有の拡大を指揮したA・P・ジャンニーニ(1870-1949)の生涯と業績を追っている。
イタリア系移民を父に持つジャンニーニは、富裕層の大口顧客ばかりを対象とする当時の地元金融機関に反発し、一般市民から小口の預金を集め、街の中小店舗や職人などを融資対象とするバンク・オブ・イタリアを1904年に創業。その後、買収や合併を繰り返し、サンフランシスコ、カリフォルニア州、全米、そして世界に支店展開を図る中でも、当初に自ら掲げた「ピープルズ・バンク」の理想の旗を下ろすことはなかった。

著者のフランチェスカ・ヴァレンテ氏はジャーナリストで、30年以上にわたり北米の複数のイタリア文化研究所(IIC)の所長を務めてきた。イタリアの著名作家の著作35点を翻訳している。


イタリア系移民コミュニティをターゲットにバンク・オブ・イタリアを創業

 小学生の頃から母親の再婚相手がサンフランシスコで営む農産物の仲買業者の手伝いをしていたA・P・ジャンニーニ(アマデオ・ピーター・ジャンニーニ)は、19歳の時に社員となり、持ち前の商才で大きな業績を上げた。しかし、商売に飽きた彼は1901年に退職。そのしばらく後に、以前から興味を抱いていた不動産業を始める。

 小さな不動産事務所を開き、義父(妻の父親)のジョセフ・クネオを事業に参加させたジャンニーニだったが、1902年のクネオの死が、彼の運命を大きく変えることになる。クネオは、イタリア系移民のコミュニティがあったサンフランシスコのノースビーチ地区にあった「コロンブス貯蓄貸付組合」という小さな地方銀行の株を所有し、取締役を務めていた。ジャンニーニは、その地位を引き継げばより社会に貢献できると思い、同銀行の取締役に就任、金融業界に足を踏み入れることとなった。

 ジャンニーニは銀行業についてほとんど何も知らなかったが、この銀行が、ノースビーチの一般市民のためにあるのではないことに、すぐに気がついた。当時のサンフランシスコではどの銀行も、鉱山事業や高額不動産などの大口融資が主であり、富裕層をターゲットとしていた。コロンブス貯蓄貸付組合も例外ではなかった。

 ジャンニーニは、こうした銀行の運営方針に不満を募らせた。彼は、資金を必要としている一般市民に低金利で融資を行うべきであり、そうすれば社会に貢献できるし、地域で信頼される銀行になれると確信していた。

 だが、小口融資を拡大すべきという彼の意見は取締役会で真っ向から否定され、他の役員との溝は深まるばかりだった。結局、就任からわずか2年でジャンニーニは辞任することになる。そして彼は、自分が理想とする銀行を自ら立ち上げることにした。そして、ノースビーチのイタリア系移民コミュニティとの結びつきを強調するために、立ち上げた銀行を「バンク・オブ・イタリア(Bank of Italy)」の名で登録した。

 ジャンニーニは、自分の銀行から、既存の銀行のような、富裕層向けのお高くとまった冷たいイメージを払拭し、温かく親しみやすい店舗デザインを取り入れた。個室をなくし、開放的なレイアウトで、一般市民が気軽に立ち寄れる銀行をめざした。

 バンク・オブ・イタリアは、街の食料品店、パン屋、石屋、靴屋、配管工、床屋、漁師、港湾労働者などを融資の対象とした。預金者の大半は、英語をほとんど話せないイタリア系移民だった。設立時の行員はわずか3人だったが、彼らは、銀行預金の経験がない人々に書類への記入方法などを根気強く教え、「使わなかった小銭を瓶や缶に貯めるより、銀行に預けた方が利息がつくのでお得です」と説得した。

 次第にノースビーチの人々はジャンニーニの銀行業務に魅了され、信頼を寄せるようになっていった。1905年末には、銀行の資金が100万ドルに達したが、その大半は、多くの人々の「小さな預金」が集まったものだった。

 銀行が順調に業績を積み重ねる中で、ジャンニーニは、ノースビーチのイタリア系米国人だけでなく、サンフランシスコ、そしてカリフォルニアに住むすべての人に、社会で幸せに暮らすチャンスを与えたいと考えるようになった。

 その頃、カリフォルニアには多くの移民が流入し、人口が増加し続けていた。ジャンニーニは、ノースビーチにやってくるすべての「新参者」を潜在的な顧客とみなした。貧しく、英語もろくに話せないがために見下されていたが、それでもより良い生活をしたいという希望を抱く移民たちに手を差し伸べることで、バンク・オブ・イタリアは、多くの人々からの確固たる信頼を築き上げていった。こうしてジャンニーニは、自身が掲げた「ピープルズ・バンク(民衆のための銀行)」という理想の実現に向けて、着実に歩み始めたのである。

銀行内に女性の経済的自立を支援する部門を設置

 1921年、バンク・オブ・イタリアは、本部をサンフランシスコ金融街の中心部にある7階建てのビルに移転、全フロアを占めるようになった。

 同じ年、ジャンニーニは、女性の経済的自立を支援するため、女性向けサービス専門の部門を、バンク・オブ・イタリアの中に作った。女性が賢く貯蓄、借り入れ、投資ができるようあらゆるサービスを提供するこの取り組みは、当時としては画期的で、きわめて先進的なものとして、全米の女性団体などから評価された。

 こうした、移民や女性など、他の銀行がターゲットとしてこなかった人々を支援する取り組みなどが功を奏し、バンク・オブ・イタリアは、米国シカゴ以西で最大の銀行にまで成長した。

 ジャンニーニは、サンフランシスコのイタリア移民コミュニティに軸足を残しつつも、より多くの人々の役に立ちたいと願い、支店の増設や他銀行の買収などにより、バンク・オブ・イタリアの規模を拡大していった。

 拡大路線の中でジャンニーニは「移民は生粋の米国人よりもビジネスで成功しやすい」との信念のもと、ギリシャ人、ロシア人、スラブ人、ラテンアメリカ人、中国人など、それぞれの移民に対応する部門を設置するという方針を貫いた。

全米規模に支店網を拡大、合併により「バンク・オブ・アメリカ」誕生

 創業20周年の節目を迎えた1924年、ジャンニーニは、ロサンゼルスでもっとも著名な州立銀行の一つだったバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収。ジャンニーニが設立した銀行持株会社であるバンクイタリーが、同銀行の全株式を保有し、傘下の子会社として運営することにした。

 ジャンニーニは、20年で全米最大の銀行ネットワークを構築した。そして彼は、新たなフロンティアを開拓しようとしていた。カリフォルニア州内で成功した支店拡大を、全国規模にするという目標を掲げたのだ。

 だが、当時の連邦法では、州法銀行(州法に基づく銀行)はもちろん、国法銀行(連邦法に基づく銀行)といえども、本拠とする以外の州に支店を設置して営業することは認められなかった。ジャンニーニは、法改正を求めて連邦議会でロビー活動を展開。その結果、法律が改められ、全米での支店展開が可能になった。

 1928年、ジャンニーニは、バンク・オブ・イタリアとバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを合併し、銀行名を「バンク・オブ・アメリカ」に改称した。

 全米に支店を持つ大陸横断型の銀行システムを構築したいと志したジャンニーニは、その第一歩として、ニューヨークのウォール街にある名門銀行を買収しなければならないと考えた。1920年代後半、ニューヨークのマンハッタンとその近辺には80万人ものイタリア系移民が住んでおり、その数がサンフランシスコの約2倍となっていた事実も、彼の背中を押した。

 ウォール街での交渉の結果、バンク・オブ・アメリカとバワリー・イースト・リバー・ナショナル・バンク、コマーシャル・エクスチェンジが合併し「バンク・オブ・アメリカ・ナショナル・アソシエーション」が設立された。

 ジャンニーニの銀行は、後にクレジットカード(1959年にBank Americard、1975年にVisaに改称)を導入。それにより、他に信用手段のなかった借り手に対する市場をますます拡大していった。ジャンニーニは、銀行のような民間企業が、一般大衆に経済的な機会均等と自由を提供することで、豊かな社会を築くことができると考えていた。彼は何度もこう述べている。「私の目的は、できるだけ多くの良いものを提供し、できるだけ多くの人々を幸せにすることだ」

コメント

ジャンニーニが全米展開をめざし、ニューヨークに進出した際には、ウォール街の既存の大銀行などから大きな反発があり、妨害もあったようだ。さまざまな規制とも闘いながら、ジャンニーニは信念を貫き、開拓者精神を発揮していった。こうした周囲の反応や、それらに対するジャンニーニの行動は、まさしく米国にやってきた「移民」が経験したものと同じだったのではないだろうか。ジャンニーニは、移民と同様のフロンティア精神を抱き、彼が支援の対象としていた移民たちとともに新天地で闘っていたのだと思う。

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